日本へは6世紀頃伝えられ、栄西禅師が「喫茶養生記」にてお茶を伝えたという説が最も一般的です。 記録を見ると「季御読経」(1446年)「官曹事類」(729年)に宮廷の公事として「2月8日に大般若経を皇居にて講じられる、第2日には引き茶とて僧に茶を給うことあり」とあります。9世紀頃には上流階級の間で茶が一般的だったとされています。 太上天皇が最澄とともに入唐した海公とともにお茶を飲み空海の寺に帰るという詞も残っています。「お茶の大辞典」では日本茶の自生説にも触れています。「昭和58年刊の「日本茶業発達史」によれば日吉の茶樹は調査の結果中国種ではないとしている。それとも当時のものが枯死した為、後人が新たに植えたものだろうか」という風に関東以西の山地に自生する山茶が日本固有のものか渡来したものか検討しています。
民俗学者柳田国男の全集21巻のお茶の項 「茶は鎌倉時代の始め頃に禅宗の僧が中国からもって帰り、九州の肥前の背振山、それから宇治などに栽えたということになっているが、この説は半分間違っている。輸入しなくても我が国の中央山脈には至る所に自然に生えていて、焼畑を止めると真っ先に芽を吹くのは茶の樹であった。ただ隣国のように茶を煎じて飲むことを知らなかった。」
と引用しています。ここでは12世紀栄西禅師が「喫茶養生記」にてお茶を広める前にもお茶はあったということが強調されています。
最澄、空海、永忠と平安時代の貴族階級のお茶の時代の後、鎌倉時代12世紀、栄西禅師がその時代の潮流であった禅宗とともに当時武家覇権の源氏とむすびついてお茶を広めました。 ちなみにこれから江戸時代までの飲まれているお茶は抹茶です。
「喫茶養生記」では茶を仏教との関連において、中国の茶の諸文献から諸説を引用し、その栽培、製茶、貯蔵、飲用などにについて精力的に記述しています。その後14世紀お茶と武家社会は結びついて闘茶(茶寄会い)という遊びが流行します。 これは各地のお茶を飲みくらべて産地を当てるというものです。
この内容は「喫茶往来」という往復書簡4通で茶寄り会いの様子を知らせています。 この間を通じて瀬戸や星野で茶器を作り始めたり、太宰府の光明寺に茶室一滴庵が作られてたり、茶室や茶器も造り始めました。また、足利家は茶の栽培を奨励し各地に産地ができました。 鎌倉から室町、安土桃山へ続く武家社会の整備と固有の文化気風の確立の中で、こうした遊戯は次第に影をひそめ、茶は新しい形式をそなえた、斬新な文化として、次第にその姿を現していきます。それが茶の湯です。
栄西禅師と同じ頃、聖一国師が帰宋のさい輸入した「禅苑清規」をもとに東福寺規則をつくり、そのなかで僧院における僧の生活を規定するもののうち喫茶の儀礼が含まれていうます。一定の決まりによって行う作法、後の茶の湯の原型となる茶礼がここに作られたのでした。 1326年頃茶礼が日常飲食儀礼として用いられました。1423年頃茶屋も出現しています。闘茶の改革から生まれてきたのが侘び茶です。 足利時代の村田珠光が茶禅一味の佗び茶を創始します。 |